甘い生活・5
それからしばしの間、また静寂が生まれた。
目が合ったまま動けなかったチヨコの額に、玲都がそっと口づけた。
チヨコはビクッとしたが、取りあえず彼は、それ以上のことは何もしなかった。
「幸せになってよ、チヨコさん。俺、チヨコさんのファンだから、本当にそう願ってる。
どんな形の幸せかなんて、それは分からないけどさ」
「……ありがと」
チヨコは、十は年下であろうと思われる彼の言葉に、少女のようにうなずいた。
今日初めて有ったばかりの相手とは思えない程、懐かしいような温かみを感じたのは、
本当に姉と弟のような気がしてきたからだろうか。
「玲都……だっけ。その、あたしに似てるってお兄さんは、今……幸せなの?」
その質問は意外にも、それまでとぼけ続けた玲都の表情に、陰りを呼んだ。
「……分からない」
「分からない?」
「ちょっと失踪中なんだ、今」
冷たくはない。けれど、やはり微笑の中にも、少し寂しげで、あてのないやり切れなさが見えた。
チヨコは、そんな彼の一面に思いがけず出くわし、戸惑った。何かをしてあげたいような、
でも何も出来ずに立ち尽くすように。それを察して、玲都の視線がチラリと横に滑り、
それに出逢ったチヨコは、またドキリとした。
「な……何よ」
不意に大人びた、艶めかしいムード。
すっ……と近づいた彼の速度に、判断能力がついてこない。
――唇が触れそうになる寸前で、ピタリと止まる。
まつげが吐息で揺らされるような距離のまま、チヨコは固まっていた。
「チヨコさん」
優しくからめるような眼差しの玲都が呟く。
「……え?」
「キス、したいんでしょう」
「えっ……」
何を言われたのか理解する前に、彼の唇が軽く触れた。
何が起こったのかを把握する前に、彼が囁く。
「……ほら。何てことないのに。慣れてないとか慣れすぎてるとか、いちいちどう思われるか
考えすぎて、動けなくなってる。あのおじさんの前でも、これくらいのスキを見せられれば
良いんだよ。好きな人には触れたいし、触れられたい。それは当たり前のことで、
別に恥ずかしがるようなことじゃあないさ」
「……恥ずかしいわ」
「そう?」
緩やかな困惑に瞳を潤ませたチヨコに、玲都はあくまで優しく、
「それでも良いよ。二人の時は、他に見てる人なんかいないんだし。『恥ずかしい』なんて
感じられる気持ちを持ってるのって、素敵なことだと思うけど」
そう言って彼は、もう一度チヨコに口づけた。
その時は、わずかにチヨコも彼を迎えるように、薄く目を閉じて。
いささか背徳的な味わいのキスは、納得がゆくまで交わされるように続いた。
「……それで良いんだよ」
寓話の中で弟に諭されているような、そんなボンヤリした甘さの空間。
その不確かさは、翌朝チヨコが目覚めた時に、すべてが彼女の見た夢か幻ではなかったかと、
錯覚させるほどだった。
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